フクロウ学園

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中学3年 社会 歴史

近代文化

 近代文化の課題は、西洋文明を取り入れつつ、いかに新しい日本文化をつくり出していくかというところにありました。
 美術界では、伝統の価値が見直されるようになり、アメリカ人のフェノロサが、岡倉天心(おかくらてんしん)と協力して日本画の復興に努め、日本画の横山大観(よこやまたいかん)狩野芳崖(かのうほうがい)、彫刻の高村光雲(たかむらこううん)らが伝統的な技法を近代美術として再興しました。  そのいっぽうで西洋文化を消化した新しい文化も生まれました。
フランスに留学した黒田清輝(くろだせいき)が、印象派の明るい画風を紹介し、ロダンの弟子となった萩原守衛(はぎわらもりえ)は洋風の近代彫刻を制作しました。
 音楽では、滝廉太郎(たきれんたろう)「荒城の月」「花」などを作曲して、洋楽の道を開きました。
 近代文学は、それまでの宗教や道徳にしばられた考え方や文語の表現をすてて、見たままを考えたように書くようになりました。
これを言文一致(げんぶんいっち)といいます。
 明治20年代には、口語文は新しい表現方法として急速に広まっていきました。
 日清戦争の前後には、個性を重んじるロマン主義が主流となり、短歌の与謝野晶子(よさのあきこ)、小説の樋口一葉(ひぐちいちよう)ら女性の文学者が活躍しました。  日露戦争の前後には、社会の現実を直視する自然主義が主流となる一方で、夏目漱石(なつめそうせき)森鴎外(もりおうがい)は、西洋文明と本格的に取り組んだ日本の知識人の生き方をえがいた小説を発表しました。  教育の普及も近代文化の発展を支えました。
小学校が各地に建設された結果、小学校の就学率は、1891年(明治24)年に50%をこえ、1907年には97%に達して、国民教育の基礎が固まりました。
 義務教育の年限も、1907年にそれまでの4年から6年となりました。
また中等・高等教育も拡充され、女子教育も重視されるようになりました。
 一方で、家庭的にめぐまれない子供や、障害のある子供たちが教育を受けることは困難でした。
こうした子供たちの教育に尽くした人がいます。  政府の取り組みとしては、大正期に入って社会福祉の考えがしだいに広がると、政府も社会福祉に取り組み始め、障害のあるこどもの教育のための「盲学校及聾唖学校令(もうがっこうおよびろうあがっこうれい)」を公布して、道府県(東京も当時は府)に学校の設置を義務付けました。
こうして、さまざまな福祉政策が次第に実施されるようになっていきました。
 第二次世界大戦後に、日本国憲法で教育を受ける権利が保障されると、これに基づいて教育基本法が制定され、すべての子供たひに教育を受けさせるために、特殊教育の理念がかかげられて、昭和30年代以降、養護学校などの施設が急速に整備されていきました。
 教育の広がりの中で、優れた科学者や研究者も多く生まれ、19世紀末からは、細菌学や原子物理学の分野で最先端の世界的な研究があらわれました。