フクロウ学園
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中学2年 社会 歴史
明智光秀
明智光秀は1568年足利義昭を織田信長が将軍にするとき、細川藤孝とともに工作にあたり、そのまま信長に仕えます。
1570年 森可成戦死後、近江宇佐山城に入ります。
1571年 近江坂本城を築き、琵琶湖南部・西部の軍事に活躍します。
1573年 朝倉氏滅亡後に越前の政務に携わります。
1574年 大和の筒井順慶を支援します。
1576年 丹波(兵庫)攻略を開始します。
1577年 丹波で一回敗戦します。
1578年 石垣造の城を丹波に築き、波多野秀治の八上城、赤井直正の黒井城を落とします。
1579年 丹波を平定し、信長に支配を認められます。
その間、石山本願寺包囲・紀州攻め・松永久秀の信貴山城攻め・秀吉の播磨出陣の救援・荒木村重の有岡城攻めに従軍し、大和の筒井順慶の築城を指導します。
1580年 滝川一益とともに大和一国の所領を指しださせ、廃城(城を壊すこと)します。
1581年 細川藤孝とともに丹後(京都北部)の検知を行い、そこでも知行を与えられ、近江・丹後に及ぶ広い所領を得ました。
丹波攻略中に亀山城を築き、近江の坂本城とともに拠点としました。
1582年 武田勝頼討伐軍に従軍し、帰陣後徳川家康の接待を命じられるが、急遽、備中の秀吉の支援を命ぜられます。
その道中、坂本城から亀山城に入り備中に向かう途中に方向を急に変えて本能寺を急襲し信長を討ちます。これを本能寺の変といいます。
秀吉と京都山崎で対陣し敗れ、坂本城に敗走中に小栗栖(京都伏見区)で住民に落ち武者狩りされ自刃しました。
なぜ急に謀反にいたったかは諸説あり未だ不明です。
光秀は連歌・茶の湯に通じ、民政・軍事・築城にも長けた教養人でした。