フクロウ学園

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中学2年 社会 歴史

1867年 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)

 王政復古の大号令は、幕府が朝廷から任されて政治を行っていた形式をやめて、天皇を中心として直接政治を行っていくことにしたという宣言です。

 武力討幕を計画していた薩長両藩によって、1867年10月13日には討幕の密勅が出されることになりました。
そこで、第15代将軍徳川慶喜は、武力対決をさけるため、1867年10月15日に大政奉還をして、政権を朝廷に返上しました。
しかし、諸藩との会議が難航していたため、大久保利通西郷隆盛岩倉具視ら公卿が画策して、1867年12月9日に朝廷に王政復古の大号令を出させて、明治政府を樹立します。
 大号令の内容は、幕府や摂政・関白を廃止して、総裁・議定・参与の三職の役職を任命して、天皇中心の政治を実現しようとするものでした。
総裁は、新政府の総括として、熾仁親王(たるひとしんのう)が就任しました。
議定は、各官を監督するものとして、皇族・公卿・雄藩諸侯が就任しました。
参与は、各官の事務を手分けして受け持つとして、他公卿・雄藩諸侯が就任しました。
1868年1月17日には、三職の下に神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置く、三職七科の制が設けられました。
同年2月3日には、七科を七事務局(海陸軍は軍防事務局)として、総務局を追加して三職八局の制に改めました。
同年4月21日の政体書の公布により廃止されました。
 1867年12月9日の夜の小御所会議(こごしょかいぎ)で、徳川慶喜の辞官・納地を審議して決定しました。
小御所会議は、任命された総裁・議定・参与が出席して、将軍職を辞退した後の徳川慶喜の処置について決めるために、京都御所内の小御所で開かれた御前会議です。
会議は、徳川慶喜の会議への出席と公儀(朝廷・政府)での働きをつくすことを主張する山内豊信・松永慶永・後藤象二郎・徳川慶勝ら一派と、
慶喜に内大臣の官位を辞退させ、徳川家の所領の返納を求める大原重徳・岩倉具視・大久保利通・島津茂久ら一派に分かれて、深夜まで激論が続きました。
休憩中に浅野茂勲(あさのながこと)の調停によって山内豊信らが折れて、慶喜に辞官・納地させることを決定しました。
これは、旧幕府側を怒らせて戦争に持ち込もうとする武力討幕派の考えによるものでした。
 この王政復古の大号令によって、幕藩体制から天皇政治への転換が決定的となりました。