フクロウ学園
トップページ|歴史目次
中学2年 社会 歴史
1864年 四国連合艦隊下関砲撃事件
四国連合艦隊下関砲撃事件は、前年の1863年に長州藩が下関を通過する米商船へ砲撃を行ったため、英・米・仏・蘭の四国の艦隊から報復攻撃を受けた事件です。
1863年5月 長州藩は、奉勅(天皇の命令を受けること)攘夷(外国人を追い払うこと)の路線によって、下関沖を通過するアメリカ商船ベンブローグ号らを砲撃しました。
幕府は長州藩の単独での攘夷実行を抑えることができませんでした。
1864年6月 イギリス・アメリカ・フランス・オランダの4か国は、下関遠征を決めて、イギリスのクーパーを総司令官として17隻の戦艦と5000余の兵員を派遣しました。
同年8月 艦隊は下関を砲撃します。
長州藩では、高杉晋作が奇兵隊を編成して断固抵抗しましたが、ほかの藩兵に戦意がなく、わずか3日で敗北しました。
同月 長州藩は、高杉晋作を代表として和議を申し入れ、講和条約が成立し、外国船の下関通航の保障、薪水・食料の売り渡し、砲台の新築・および修理をしないこと、幕府から損害賠償金を支払うことを決めました。
折から、幕府の長州征討軍も迫り、長州藩は屈服しました。
長州藩では、この砲撃事件と禁門の変と第一次長州征討によって恭順政策をとる俗論派が藩政を握りました。
この俗論派から実権を武力で奪回した高杉晋作ら討幕派は、臣や子が君や親など身分によって従わなければならないという表向きだけの攘夷主義から脱け出しました。