フクロウ学園

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中学2年 社会 歴史

1863年 八月十八日の政変

 八月十八日の政変は、尊王攘夷(そんのうじょうい)派が京都から追放された政変です。

 尊王攘夷の「尊王」は、天皇を君臣関係の最高の存在と見る考え方です。
武家政権の下で低下してきた天皇の地位を守ろうとする政治的立場から提起されたもので、朱子学の正名論・大義名分論に基づいています。
徳川幕府は、成立の当初から尊王を通じて将軍の権威を高めようとしました。
林羅山の楠木正成評価、前田綱紀の湊川建碑、徳川光圀の大日本史編纂などがその例です。
しかし、尊王の思想と古代以来の天皇の強調は、覇者としての幕府を批判し、斥けようとする傾向をもたらしました。
竹内式部の宝暦事件(1758)や山県大弐の明和事件(1766)はその早い現れであり、攘夷論と結びついた後期水戸学の尊王論にもその傾向がみられます。
国学に基づいた尊王思想の広がりは、封建制度への政治批判に進みました。
江戸時代後期になると、このような主張が幕府に反対する運動(反幕運動)になって、明治維新を通じて絶対主義的な天皇にすべての国民の臣従をもとめる一君万民思想になりました。
 
 尊王攘夷の「攘夷」は、外国人を追い払う運動のことです。
 尊王攘夷は、江戸時代後期の反幕運動で、「尊王」と「攘夷」は本来別個の政治運動でしたが、江戸時代後期に結びつき、徳川幕府を倒す(討幕)重要な役割を果たしました。
 尊王攘夷運動のきっかけになったのは、1858年の日米修好通商条約の調印です。
1852・1853年のペリー来航から外国の危機が激しくなり、老中阿部正弘は朝廷や諸藩の意見を聞いて、1854年 日米和親条約に調印します。
幕府はこの後も外国との協調していく政策をしますが、このことが諸藩の自立化と朝廷が政治をすることをもたらします。
1858年 老中堀田正睦は、朝廷の勅許を得て、日米修好通商条約に調印しようとしますが、失敗します。
ところが、大老井伊直弼が、これに反対して、天皇の意向を無視して日米修好通商条約に調印し、朝廷の力よりも幕府が独裁を続けることを強めようとしました。
そのため、天皇を最高の存在とする「尊王」派は、朝廷が外国との協調路線をとらないと考えて、外国人を追い払う運動をしていた「攘夷」派となり、幕府を倒す運動になりました。
 尊王攘夷運動には2つの流れがあり、一つは、幕府の政治を批判しつつも、朝廷と幕府が一緒になって政治を行うようにする公武合体派と、幕府が諸藩を支配する幕藩体制を否定し、実力をもって討幕を目指す急進派がありました。
 公武合体派では、薩摩藩・会津藩が主として動き、急進派では長州藩・土佐藩が主として動きます。
 1862年 薩摩藩は寺田屋事件によって、幕府に活動を抑えられていましたが、長州藩では高杉晋作や久坂玄瑞らが有志隊を集めて、藩内の動きを掌握し、土佐藩では武市瑞山が勤王党を組織して、京都の政局を握りました。
 1863年4月 急進派は攘夷祈願のための賀茂社や石清水社への天皇の行幸を実現させます。
 同年5月10日 急進派は将軍に攘夷実行の日を宣言させます。
 同年8月13日 攘夷祈願・親征軍議のための大和行幸の詔を出させます。
こうした急進派の活動は、すでに幕藩体制の秩序がなくなってきていることを表していました。
 そこで、幕府は薩摩・会津両藩の公武合体派の指導者たちの協力を得て、朝廷内部の上位の公卿と連絡をして、クーデターを計ります。
 同年8月18日未明 薩摩・会津両藩の兵が御所を守る中、朝彦親王(あさひこしんのう)(中川宮(なかがわみや))・前関白近衛忠煕(このえただひろ)父子・右大臣二条斉敬(にじょうなりゆき)・京都守護職松平容保(まつだいらかたもり)らが参内して、朝議(朝廷の評議・意志)を公武合体に変え、過激な攘夷が天皇の意志でないことを表明します。
 まず大和行幸を延期させ、長州藩の御所警備の任を解き、国事参政・国事寄人(こくじよりうど)(ともに朝議へ参加できる朝廷の役職)の役職を廃止させて、三条実美以下21名の急進派の公卿の参朝(朝廷に出仕すること)を停止させました。
 このため、三条実美ら公卿と長州藩の急進派の志士が、妙法院に集まって善後策を協議します。
この結果、一部の公卿は京都に残りましたが、三条・三条西季知(さんじょうにしすえとも)東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)壬生基修(みぶもとおさ)四条隆謌(しじょうたかうた)錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)沢宣嘉(さわのりよし)の7名は、長州藩士らと共に長州に赴くことになりました。
これを「七卿落ち」といいます。
彼らは翌日京都を出発して、27日に徳山(とくやま)に上陸して、同夜三田尻(みたじり)招賢閣(しょうけんかく)に入りました。

 この8月18日の政変によって、急進的な尊攘派によって支配されていた京都が、公武合体を求める藩によってリードされるようになり、江戸時代後期の政局に転機をもたらしました。