フクロウ学園

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中学2年 社会 歴史

1787年 寛政の改革(かんせいのかいかく)

 寛政の改革は、松平定信(まつだいらさだのぶ)が百姓一揆や打ちこわしが続く危機的な状況から抜け出すため、8代将軍徳川吉宗の享保の改革を見本として始めた改革です。

 松平定信は、徳川吉宗の孫にあたり、奥州の白河藩主を経て、1787年に老中首座になります。
当時、前代の田沼意次の各種専売制の新法によって年貢を増やすなどの商業を重視した政策によって、農地から逃げ出す農民が増加して農村の荒廃が進み、百姓一揆が続いていました。
都市では、物価が高騰し、農地から逃げ出した農民の増加によって都市の秩序は悪化して、打ちこわしが多く起こり、危機的な状況になりました。
 松平定信は、農村では本百姓経営の再建を目指して、人返し令(旧里帰農令)を発布し、公金の貸付によって荒地起変・小児養育を奨めました。
また、飢饉対策として籾蔵を設置させました。
 商業政策では、江戸の豪商10名を勘定所御用達に任命して、その資本力を活かして米の値段の調節を行いました。
また、七分金積立・石川島の人足寄場の設置もして、一般の町民を助ける政策を行いました。
さらに、旗本の救済策として、札差棄捐令を出しました。
 松平定信は、思想や情報の統制にも力を注ぎ、朱子学以外の学問を禁ずる異学の禁を出し、好色本や政治批判の書を取り締まりました。
また、大名の留守居組合は風俗を見出し、幕政にとって好ましからぬ存在として、解散が命ぜられました。
 この寛政年間は、1792年にロシア使節のラクスマンが根室に来航して通商を求めるなど、海防問題が生じました。
当時、ロシアの南下に対する海防の書である林子平の著した「海国兵談(かいこくへいだん)」が広まっており、その海防論は松平定信も採用しまし、定信自ら、安房・伊豆・相模の海岸線を巡視して江戸湾の防備計画に着手しました。
 林子平は、「処子横議(しょしおうぎ)」が政治批判の書として取り締まりを受け処罰されましたが、その海防政策は松平信明・本多忠籌(ほんだただかず)・戸田氏教ら「寛政の遺老」と呼ばれた老中たちによって19世紀はじめまで継続されました。
 改革を厳格に行った松平定信は11代将軍徳川家斉との関係が悪化しました。
1793年 光格天皇との関係や徳川家斉の父の処遇をめぐって対立し、定信は老中を辞職しました。