フクロウ学園

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中学2年 社会 歴史

1582年 山崎の戦い(やまざきのたたかい)

 織田信長の命を受けて、羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉)は中国地方平定のために備中(びっちゅう)(岡山)に進軍します。
高松城で毛利家家臣の清水宗治(しみずむねはる)を水攻めにし、救援にきた毛利軍と対陣します。
この時、秀吉の支援に向かう信長は京都の本能寺で明智光秀の謀反により自刃します。(本能寺の変
 すぐに秀吉は毛利氏と講和を条件に清水宗治を自刃させ、迅速に軍を戻して京都目前の山崎で明智光秀と戦い敗走させます。
岡山から大阪と京都の境の山崎まで約200kmを約10日間で軍を戻します。これを備中大返しといいます。
明智光秀は敗走中に落ち武者狩りに合い自刃します。この戦いを山崎の戦いといいます。
 山崎の戦いで勝利した秀吉は山城(やましろ)(京都南部)の検地を行います。
後に豊臣秀吉は太閤(たいこう)(摂政・関白の地位を子弟に譲った人の官職)の地位に任ぜられたため、この検地を太閤検地といいます。
 織田の家臣たちは跡継ぎの織田信忠も殺されたため、信長の跡継ぎ問題と所領の再分配の会議を清州で行います。
この会議を清州会議(きよすかいぎ)といいます。
 秀吉は織田信忠の子(信長の孫)織田秀信(おだひでのぶ)(三法師(さんぼうし)当時3歳)を推薦しましたが、重臣の柴田勝家は信長の3男織田信孝を推薦したため対立します。