フクロウ学園

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中学2年 社会 歴史

1582年〜1598年 羽柴秀吉(はしばひでよし)検地(けんち)太閤(たいこう)検地)をはじめる

 山崎の戦いで勝利した羽柴秀吉山城(やましろ)(京都南部)の検地を行います。
その後、秀吉は1598年まで征服した大名の領地を次々に検地していきます。
 1591年 秀吉は関白を経て、太閤に任ぜられたため、秀吉が行った検地のことを太閤検地といいます。
 この検地の目的は複雑になった土地と農民の支配を一度きれいにして、基準を定めて米の収穫量を把握することでした。
検地奉行に浅野長政(あさのながまさ)増田長盛(ましたながもり)・石田三成(いしだみつなり)らの直属の有能な重臣を任命しました。
  ※浅野長政と浅井長政は名前が似ていますが別人なので注意してください。
 具体的に行った施策として、まず一間(いっけん)(約180cm)の長さを統一しました。
それまでは、地域によって長さの単位がまちまちだったので、収穫量の正確な把握ができませんでした。
 次に、土地を田・畑・屋敷用の土地のように用途別に区別し、田や畑には良い土地と悪い土地の区別をつけるために4段階の等級もつけました。
また、地方によって米を測る升の大きさも違っていたため、これも1586年に京升(きょうます)(1辺=約15.5cm)に統一します。
このことによって土地の広さだけでなく、実際に収穫された量に対する年貢の量を計算できるようになりました。
 土地でとれる収穫量を米の重さで表しました。
米約150kgを一石(いっこく)
としてその土地の収穫量を表しました。
この表し方を石高(こくだか)といいます。
 家臣や農民に与えられる土地はこの石高を基準にして功績と比較し与えられました。
さらに、名主や奴隷的な農民などの農民の中の階級を取りやめて等しく耕作農民として、一地一作人の原則で同列に並べました。
このことによって有力農民が武士化することがなくなり、武士と農民を分離することに成功します。これを兵農分離(へいのうぶんり)といいます。
検地の単位もすべてを村単位とし、年貢や夫役(労働による納税)も1村単位としました。
これによってあいまいな行政単位がなくなり荘園制が終わりました。