フクロウ学園

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中学2年 社会 歴史

1485年 山城の国一揆(やましろのくにいっき)

 山城の国一揆は山城の国人が山城南部で二派に分かれて争っていた畠山軍を国から追い出した一揆です。
 1477年 応仁の乱の京都での両勢力の対陣がおわり、京都の大半が焼けてしまいました。
将軍と幕府の権威が低下して、幕府に支えられていた皇室・公家・寺社の勢いもなくなります。
各地の有力者・守護は戦国大名として領地拡大を狙い、各地で合戦がおこり戦国時代に入ります。
 畿内(きない)(京都周辺)では応仁の乱の原因となった畠山氏の家督争いは続きます。
 1485年 畠山義就(はたけやまよしなり)派が畠山政長(はたけやままさなが)派の国人(こくじん)を河内(大阪東部)・大和(奈良)・山城南部(京都南部)で攻撃します。
 国人とは、幕府の支配に反対して、地方で小規模な領主として支配していた地頭・荘官・有力名主のことです。
山城南部は郷村制の発達によって富を蓄えられるようになっており、これを邪魔する勢力に強く抵抗しました。
 畠山政長派の大和国人らの大半が没落しながら山城南部に集結します。
これに対して畠山義就派の大和・河内の国人も集まって約2か月間対陣します。
 対陣が続く間、山城国の国人と多くの土民は宇治平等院に集まり、「一揆側は両畠山軍の山城からの退去」・「荘園を山城国の荘園領主に返還すること」・「他国の者を代官にしないこと」を畠山政長・義就両軍に要求し、一揆を起こしました。
 畠山政長・義就両軍ともに退き、1486年 山城国の国人と土民の一揆をおこした集団は、惣国(そうこく)(そうこく)と称して、掟を整備し守護から年貢の半分を徴収する半済(はんぜい)を獲得しました。
さらに、守護が行う検断(けんだん)(警察・治安・裁判の権利)をするようになり、守護にかわって行政や治安維持をして自分たちで政治をするようになりました。
この国人と土民たちが守護の支配から自治(じち)(自分たちで政治をおこなうこと)を獲得した一揆のことを山城の国一揆といいます。
 1493年9月 明応の政変(めいおうのせいへん)後、大和の国人古市澄胤(ふるいちちょういん)が郡代となって山城の国人と合戦し、山城の国人が敗れ山城の国一揆は解体し、守護の支配を受け入れます。