フクロウ学園

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中学1年 社会 歴史

紀元57年 倭の奴国の王が後漢の光武帝より金印授かる

 中国を後漢が治めていたころの歴史書の「後漢書」東夷伝に、紀元57年に倭の奴国という国が貢ぎ物をもって後漢に来て、後漢の王である光武帝は組紐(くみひも)のついた金印を与えたとあります。
 1784年に博多湾の筑前志賀島で、百姓甚兵衛が水田の溝を修理していた時に畑の大きな石の下から「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印を発見しました。
金印は福岡藩に差し出され、現在は福岡市博物館に収められていて、「後漢書」記載の記事にある「印綬」と考えられています。
金印はつまみの部分は蛇の形がつくられています。
 
 中国の後漢に貢物をしていたことから日本の倭との関係は、倭が後漢に仕えていた関係であることがわかります。
この関係のことを朝貢(ちょうこう)関係といいます。
【朝貢について】
 朝貢は、アジア周辺諸国の支配者が中国に使節を送り、皇帝に貢ぎ物を差し出す制度のことです。
四大文明でもあげられるように中国の漢の時代(日本は縄文時代後半〜弥生時代)から19世紀まで約2000年もの間、アジア諸国の中で中国の文明は著しく進んだものでした。
そこで中国からの侵略の防止と周辺諸国の支配者として中国に認めてもらうことで、自国を治める力があることを国内にも認めさせようとしました。
その代わりに、中国へは貢ぎ物を送り、また中国からのお返しに絹や銅銭を得ることができました。
そのため文明が遅れている国にとって朝貢は有利な制度でした。
 3世紀頃には日本に小さな国がたくさんできました。
その国のうち奴国(なのくに)邪馬台国(やまたいこく)が中国に朝貢したことが中国の歴史書に記されています。
 5世紀ころの日本は大和(奈良県)を中心にして豪族が集まって九州南部と東北地方をのぞいた日本の大部分を支配する勢力が生まれました。
この勢力を大和政権(やまとせいけん)といいます。
大和政権も朝貢に励み、また東アジアでも高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)などの新しい国々ができ、その国々も朝貢に励みました。
朝貢関係を通じて漢字仏教などの文化が伝わり、律令制(りつりょうせい)などの国家体制も伝わりました。
 10世紀ころの中国が宋や元が支配していた時代には、民間の貿易や文化交流は盛んでしたが、国どうしとしての正式な朝貢関係はあまり結ばれませんでした。
 14世紀に中国を統一した明は東南アジア・インド洋諸国との間に朝貢関係を広く結びました。
日本では室町幕府の3代将軍足利義満が明との朝貢をしました。
この明との朝貢には当時の海賊である倭寇と取引する船の区別をするため合い札を使いました。
この合い札のことを勘合と呼んだため、この明との取引を勘合貿易といいます。
 今の沖縄である琉球王国は1609年に薩摩藩に服属しました。
薩摩藩の島津氏は琉球王国の名を利用して対明貿易を続けました。
琉球王国も明・清に定期的な朝貢を続けて中国と薩摩藩の両方に服属する形を取り続けました。
琉球王国は1879年の明治政府によって日本の領有となるまで中国・日本・朝鮮・ベトナム・タイを結ぶ中継貿易を行いました。