フクロウ学園

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中学1年 社会 歴史

1350年 観応の擾乱(かんのうのじょうらん)

 北朝内部では足利尊氏(あしかがたかうじ)の執事高師直(こうのもろなお)らの急進政策と、尊氏の弟の足利直義(あしかがただよし)上杉憲顕(うえすぎのりあき)らの漸進政策とで対立が生まれていました。
 1349年 直義師直の権力の増大を恐れて執事を一時免職させます。
高師直は尊氏に願い出て、直義の政務を停止させ、直義は出家します。
高師直は直義の代わりとして尊氏の子である足利義詮(あしかがよしあきら)を鎌倉から呼び寄せます。
ところが、直義の養子の足利直冬(あしかがただふゆ)が反尊氏の動きを九州で強めました。
 1350年 尊氏・師直は直冬討伐のため京都から出兵します。
直義は身の危険を感じて南朝に降伏し、逆に細川顕氏(ほそかわあきうじ)石塔頼房(いしどうよりふさ)山名時氏(やまなときうじ)ら有力武士を集めます。
 1351年 1月 直義軍は京都を占領します。
 同年 2月 摂津(大阪)で尊氏・師直軍と合戦します。
ここで上杉憲顕が高師直討伐で挙兵して、高師直一派は殺されてしまいます。
この戦いは直義軍が優勢で講和が成立します。
 難を逃れた尊氏は南朝に降伏して、その時の南朝の天皇である後村上天皇綸旨(りんじ)(めいれい)を得て直義を追います。
一旦は戦いが落ち着いたものの争いは再び起きます。
 8月 直義は尊氏の攻撃をおそれて北陸に逃げます。
 11月 直義は鎌倉に入ります。
 1352年 尊氏は鎌倉で弟直義を毒殺します。
この戦いを観応の擾乱といいます。 室町幕府の二頭体制が終わります。